大井行満
凡例 大井行満 | |
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時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
生誕 | 享徳2年(1453年) |
死没 | 大永5年3月3日(1525年3月26日) |
別名 | 小次郎、縫殿助、弾正忠 |
戒名 | 高井院月潭良龍 |
墓所 | 桃源院 |
氏族 | 小笠原氏流大井氏 |
父母 | 父:大井行俊、母:大井持光の娘 |
兄弟 | 行満、女子(依田源四郎室)、行朝 |
妻 | 板垣氏の娘 |
子 | 女子(屋澤氏室)、行真、行次、松岩(桃源院開祖) |
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大井 行満(おおい ゆきみつ)は、戦国時代の武将、信濃国佐久郡、岩尾大井氏、二代岩尾城主。大井行俊の嫡子。
生涯
享徳2年(1453年)、長土呂館に生まれる。文明年間に甲斐国の板垣氏の娘を娶る。文明18年(1486年)、家督を嗣ぎ弾正忠と称した。延徳元年(1489年)、武田信昌が佐久に侵入して岩尾城も焼き討ちにあったが、小諸城主大井光忠、香坂・志賀・平賀氏の勢力が結集し、村上氏の支援によって武田勢を退け、行満は帰城した。永正6年(1509年)、関東管領上杉顕定の斡旋により、伴野貞慶との和議を行った[1]。明応年中(1492年-1500年)に出家し回国修行に出て、大永5年(1525年)岩尾城に帰り、西国・坂東・秩父百番観音巡札の供養塔を建てた。同年3月3日、岩尾城に卒す。73歳。遺言により牌を高野山蓮華定院に建てた。