足利将軍一覧
足利将軍一覧(あしかがしょうぐん いちらん) では、室町幕府(足利幕府)の主であった、征夷大将軍に任ぜられたものを扱う。
概要
初期は鎌倉殿と呼ばれ、3代将軍足利義満が室町第に移って以降は室町殿とも呼ばれる。義満は太政大臣・源氏長者に上り、以降の将軍も高い官位と格式を誇った。しかし義満と、子の6代将軍となった足利義教を除いて将軍権力は不安定であり、将軍襲撃や反乱・戦乱等の動揺が絶えなかった。初代将軍足利尊氏と10代将軍足利義材は、将軍職を追われた後に将軍職に復帰している。
一覧
代 | 氏名 | 肖像 | 院号 | 官位 | 在職 | 期間 | 父親 | 享年 | 墓所 |
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01 | あしかが たかうじ 足利尊氏 (初め高氏) | とうしいん/等持院 | 02-00/正二位 権大納言 | 1338-建武5年8月11日 - 延文3年4月30日 (1338年9月24日 - 1358年6月7日) | 19年 8か月 [注釈 1] | 足利貞氏 | 54 | とうしいん/等持院 | |
02 | あしかが よしあきら 足利義詮 | ほうきょういん/寶筐院 | 02-00/正二位 権大納言 | 1358-延文3年12月8日 - 貞治6年12月7日 (1359年1月7日 - 1367年12月28日) | 09年 | 足利尊氏 | 38 | ほうきよういん/宝筐院 | |
03 | あしかが よしみつ 足利義満 | ろくおんいん/鹿苑院 | 01-10/従一位 1/太政大臣 | 1368-応安元年12月30日 - 応永元年12月17日 (1369年2月7日 - 1395年1月8日) | 26年 | 足利義詮 | 51 | しようこくし/相国寺 | |
04 | あしかが よしもち 足利義持 | しようしよういん/勝定院 | 01-10/従一位 3/内大臣 | 1394-応永元年12月17日 - 応永30年3月18日 0(1395年1月8日 - 1423年4月28日) | 28年 4か月 | 足利義満 | 43 | 𘚟/- | |
05 | あしかが よしかず 足利義量 | ちようとくいん/長得院 | 04-02/正四位下 参議右近衛権中将 | 1423-応永30年3月18日 - 応永32年2月27日 (1423年4月28日 - 1425年3月17日) | 01年 11か月 | 足利義持 | 19 | 𘚟/- | |
0* | 空位[注釈 2] | 応永32年2月27日 - 正長2年3月14日 0(1425年3月17日 - 1429年4月17日) | 4年 1か月 | ||||||
06 | あしかが よしのり 足利義教 (初め義宣) | ふこういん/普広院 | 01-10/従一位 2/左大臣 | 1429-正長2年3月15日 - 嘉吉元年6月24日 (1429年4月18日 - 1441年7月12日) | 12年 3か月 | 足利義満 | 48 | しゆうねんし/十念寺 | |
0* | 空位[注釈 3] | 嘉吉元年6月24日 - 嘉吉2年11月6日 0(1441年7月13日 - 1442年12月18日 ) | 1年 5か月 | ||||||
07 | あしかが よしかつ 足利義勝 | けいうんいん/慶雲院 | 04-12/従四位下 左近衛中将 | 1442-嘉吉2年11月7日 - 嘉吉3年7月21日 (1442年12月19日 - 1443年8月16日) | 00年 8か月 | 足利義教 | 10 | あんこくし/安国寺 | |
0* | 空位[注釈 4] | 嘉吉3年7月22日 - 文安6年4月28日 0(1443年8月17日 - 1449年5月20日) | 4年 9か月 | ||||||
08 | あしかが よしまさ 足利義政 (初め義成) | ししよういん/慈照院 | 01-10/従一位 2/左大臣 | 1449-文安6年4月29日 - 文明5年12月19日 (1449年5月21日 - 1474年1月7日)0 | 24年 8か月 | 足利義教 | 55 | しようこくし/相国寺 | |
09 | あしかが よしひさ 足利義尚 (晩年は義煕) | しようとくいん/常徳院 | 01-10/従一位 3/内大臣 | 1473-文明5年12月19日 - 長享3年3月26日 0(1474年1月7日 - 1489年4月26日) | 15年 4か月 | 足利義政 | 25 | しようこくし/相国寺 | |
0* | 空位[注釈 5] | 長享3年3月26日 - 延徳2年7月4日 0(1489年4月26日 - 1490年7月21日 ) | 1年 3か月 | ||||||
10 | あしかが よしき 足利義材 (のちの義尹→義稙) | けいりんいん/恵林院 | 01-10/従一位 権大納言 | 1490-延徳2年7月5日 - 明応2年6月29日 (1490年7月22日 - 1493年8月11日)0 | 03年 | 足利義視 | 58- | さいこうし/西光寺- | |
0* | 空位[注釈 6] | 明応2年6月30日 - 明応3年12月26日 0(1493年8月12日 - 1495年1月22日 ) | 1年 5か月 | ||||||
11 | あしかが よしずみ 足利義澄 (初め義高) | ほうしゆういん法住院 | 03-10/従三位 参議2/ | 1494-明応3年12月27日 - 永正5年4月16日 0(1495年1月23日 - 1508年5月15日) | 13年 4か月 | 足利政知 | 32 | 𘚟/- | |
10 (再) | あしかが よしたね 足利義稙 (初め義材→義尹) | けいりんいん/恵林院 | 01-10/従一位 権大納言- | 1508-永正5年7月1日 - 大永元年12月25日 (1508年7月28日 - 1522年1月22日)00 | 13年 6か月 | あしかがよしみ/足利義視- | 58- | さいこうし/西光寺- | |
12 | あしかが よしはる 足利義晴 | はんしよういん/萬松院 | 03-10/従三位 権大納言 | 1521-大永元年12月25日 - 天文15年12月20日 (1522年1月22日 - 1547年1月11日) | 25年 | 足利義澄 | 40 | よしはるしそうし/義晴地蔵寺 | |
13 | あしかが よしてる 足利義輝 (初め義藤) | こうけんいん/光源院 | 03-10/従三位 参議1/左近衛中将 | 1546-天文15年12月20日 - 永禄8年5月19日 00(1547年1月11日 - 1565年6月17日) | 18年 5か月 | 足利義晴 | 30 | 𘚟/- | |
0* | 空位[注釈 7] | 永禄8年5月20日 - 永禄11年2月7日 0(1565年6月18日 - 1568年3月5日 ) | 2年 9か月 | ||||||
14 | あしかが よしひで 足利義栄 (初め義親) | こうとくいん/光徳院 | 05-12/従五位下 左馬頭 | 1568/02-永禄11年2月8日 - 同年9月末[注釈 8]000 (1568年3月6日 - 同年10月?) | 00年 8か月 | 足利義維 | 29 | さいこうし/西光寺 | |
15 | あしかが よしあき 足利義昭 (初め義秋) | れいよういん/霊陽院 | 03-10/従三位 権大納言 | 1568/10-永禄11年10月18日 - 天正16年1月13日 00(1568年11月7日 - 1588年2月9日[注釈 9]) | 19年 3か月 | 足利義晴 | 61 | 𘚟/- |
脚注
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注釈
- ^ 正平一統後の将軍解任から、後光厳天皇即位に伴う北朝の公武官位復旧までの、数ヵ月の失職期間を含む。
- ^ 義量の死後、父の義持が室町殿として政務をとった。応永35年1月18日に義持が病没すると、青蓮院門跡であった義円が後継となったが、実際の任官は還俗・元服を行った後になる。この間の政務は義円(義宣→義教)と管領畠山満家によって行われていた。
- ^ 嘉吉の変で義教が横死した後、義勝が後継と定められたが、幼少であったために征夷大将軍任官まで時間を要した。この間の政務は有力守護大名の合議によって行われている
- ^ 義勝の病死後、義政が後継と定められたが、幼少であったために征夷大将軍任官まで時間を要した。この間の政務は有力守護大名の合議によって行われている
- ^ 義尚の病死後、義政が「東山殿」としてしばらく政務をとったが、延徳2年1月7日に義政が死去すると次期将軍義材の父足利義視が大御所として政務をとった
- ^ 明応の政変により義材が解官され、義澄が征夷大将軍に任ぜられるまでの期間。この期間は細川政元による京兆専制が行われていた。
- ^ 義輝が殺害され、三好三人衆が擁立した義栄が将軍に任官するまでの期間。この時期京都に足利家の惣領となる人物は存在しなかった。
- ^ 義栄の死去日について諸説あり、次の義昭の将軍宣下時における生死は不明である。
- ^ 一般には元亀4年(1573年)の織田信長による京都追放の時点をもって幕府機構の解体(滅亡)と見なされているが、名目上は天正16年(1588年)に豊臣秀吉の仲介で准后に叙せられるまで征夷大将軍に在職していた(『公卿補任』)。